当団体代表理事松本惠里の教育ジャーナル(http://gakkokyoiku.gakken.co.jp/k-journal/)でのインタビュー記事をご紹介します。スマイリングホスピタルを始めた経緯や、活動に対する思いが語られています。是非ご一読ください。
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正義感の強い木登り名人
ーどんなお子さんでしたか?
松本 おてんばでした。学校から帰ると靴も説がずにランドセルを放り出して、そのまま外へ避びに行っていました。木登り名人で、近所の百日紅が”わたしの木”。よく一人で登ったものです。学校の「日焼け大会」で優勝するほど真っ黒なうえ、髪も短くて、男の子みたいでしたね。その反面、家の中で絵を描いたりぬいぐるみを作ったりと、手先を動かすことも大好きでした。洋裁をしていた母に、端切れや毛糸をよくねだったものです。外でも家でも、大勢で遊ぶより一人で過ごすことのほうが多かったですね。
ー正義感が強かったそうですね。
松本 女の子がいじめられたりしていると、許せませんでした。いじめる男の子をとっちめたものです。その性分は今でも変わらず、弱い者や小さい者が苦しめられている姿は、見て見ぬふりができません。片隅でぽつんと一人でいる人、みんなから浮いてしまっている人などがいても同じで、何かで苦しんでいるのかもしれないと思い、気になってしまいます。
ところが中学、高校では自分がいじめられる身になって、一時かなりへこたれましたが、自分は何も悪くないという気持ちでしたし、一人で解決しようという思いで、詳にも相談しませんでした。一日も休まず登校し、強い気持ちでいられたのはいい経験でした。
院内学級の子どもたちと出会って
ー現在の活動を始められたきっかけをお聞かせください。
松本 お話しすると長いのですが、まず第一段階から始めましょう。
大学を卒業して銀行に就職、その後結婚して、子育ての毎日となったのですが、学生時代から英語が好きだったことから、英語の教師になりたいという思いが強まりました。それまでも、塾や予備校で英語を数えることはあったのですが、やはり学校で教えたいという願望がありました。教員免許を取るべく通信制の大学で勉強を始め、家事、育児の傍らリポートを書くなど、ハードな学生生活をこなしていたときに交通事故に遭ったのです。
あたり一帯が停電になるほどの大きな事故で、私の車はめちゃくちゃ。私も重体で、家族は「覚悟しておくように」と医師から告げられていたそうですが、なぜか奇跡的に助かり、半年の入院生活の後、リハビリが始まりました。ですが複雑骨折した右腕が動かず、鉛筆も持てない状態だったので、教員免許は諦めようと思ったほどです。それでも大学のリポートをなんとか左手で書いて、勉強を続けました。余談ですが、このとき左手で書いたリポートを見た教官から「こんな字でなく、もっと真面目に取り組め」とコメントがあったので、改めて理由を伝えたら逆に激励していただけました。
ー念願の教員生活は、院内学級でスタートしたわけですね。
松本 中学校英語科の免許を収り、東大病院の院内学級(現在の都立北特別支援学校こだま分教室)に配属されました。配属前には、過酷な入院生活を送る子どもたちの状況に、私が耐えられるかどうかテストされたものです。人によってはショックが大きいようですが、私は逆で、治療を受けながら学ぶ子どもたちの存在を初めて知り、胸を打たれました。重病でも頑張って生きる子どもたちの姿が私に促した決心は、この子どもたちの傍らこそが私の居場所だという思いでした。
その後、特別支援学校と小学校の免許も取り、赴任先も国立成育医療研究センターの院内学級(光明特別支援学校そよ風分教室) に変わりましたが、なにしろ子ともたちと一緒にいることが楽しくて、職員室に戻らないので、叱られてばかりでした。教務仕事をしていたら子どもたちと過ごす時間なんてないでしょう。子どもたちの傍らで手芸を教えたり、折り紙を折ったり、歌を歌ったり。そういうときの子どもたちは、実にいい笑顔を見せてくれるのです。芸術活動の最中こそが、子どもたちが一番楽しめる時間なんだと気づきました。
ー特に印象に残っているお子さんは?
松本 印象的だったのは、脳腫瘍で失明してしまった女の子が、憧れだったネイルアートを希望したので、専門家を呼んだところ、女の子もご家族も大変喜んでくれたことです。最期を迎える前に、充実した時を体験させてあげることができてよかったと思います。そのとき、ターミナル期の子どもの夢をかなえることが、どれほど大切かが身にしみました。その後も「メイク・ア・ウィッシュ」(難病の子どもの夢をかなえるポランティア団体)の活動で、声優や野球選手の慰問により、子どもたちが満足する様子を目の当たりにしてきました。本当に彼らの喜びようといったら、 病気が治っちゃうのではないかと思えるほどです。
そうこうするうちに、いつ異動になってもおかしくない時期になり、病院にいる子どもたちと縁を切りたくないなあ、と思っていたところへ、ある誘いが舞い込んできました。
スマイリングホスピタルジャパン設立
ーどんなお誘いが来たのですか?
松本 結婚前に勤めていたのはチェースマンハッタン銀行(現チェースモルガン銀行)でしたが、当時の上司だった人事部長からの連絡でした。チェース銀行退職者会の人が「スマイリングホスピタル」という。入院中の子どもにアートを、という活動団体をハンガリーで立ち上げており、同様の活動を日本でもということで、適切な人材を探しており、病院に勤め、英語対心が可能ということで私のところに話がきたのです。
ー願ってもないチャンスでしたね。
松本 ええ、驚きました。それまでの私の経験からすれば、くるべくしてきた話だし、自分がやらなければ、という熱い思いに駆られました。本部からいろいろなアイデアをもらいましたが、日本では事実上ゼロからのスタートです。小児病棟というのは、基本的に面会できるのが保護者に限られているので、外部者がいかにして立ち入ることができるか。それが大きな関門でした。
何をどう始めたらよいかということで、手探り状態のまま医療関係者やボランティアセンターなどに相談に行きました。「いばらの道ですよ」と言われてもあきらめきれず、足しげく相談に通ううちに、「まず仲間を集めなさい」という助言をもらい、それまでのネットワークでアーティストが多かったのも幸いして、声がけを始めました。何しろ実績がありませんから、まずはやってみなければ何事も始まらないと、神奈川県の子ども医療関係者の前でプレゼンしたのです。これが好評で、県立子ども医療センターからまず声がかかりました。
ー最初はどんなアートを届けたのですか。
松本 院内学級でALTをしていたオーストラリア人のマジシャンに頼みました。子どもたちは声を立てて大喜びです。楽しそうな子どもの姿を入院してから初めて見たと、保護者にも喜んでもらえました。
子どもたちの笑顔を見れば見るほど、私の中に込み上げてくる「怒り」があります。たくさんの経験を積んで成長するはずの子どもたちが難病にかかってしまうということの理不尽さ、不条理さに対しての「怒り」です。放ってはおけない。何か自分もしなければ駄目だという強い気持ちが湧いてくるのです。チャンスは向こうから来ましたが、私の中でのスマイリングホスピタルジャパン設立のきっかけは、この「怒り」にほかなりません。
入院してこんなにいいことがあるなんて!
ー活動は今年で3年目になるそうですね。
松本 おかげきまで1年目に10人だった登録アーティストも、今年は40人の大所帯になりました。
ー登録はだれでも可能なのですか?
松本 本物のアートを子どもたちにという理由から、プロのアーティストに限定しています。しかも病院という場ですから、参加する条件は厳しく、年に1度の健康診断のほか、おたふくかぜ(流行性耳下腺炎)、水疱瘡、麻疹、風疹の抗体検査を受け、必要に応じて接種しなくてはなりません。病院側が気にするのは、当然のことながら活動者の身体のチェックということです。
ー目下の活動例をお聞かせください。
松本 主なものとしては「紙芝居朗読劇」「マジックショー」「マジック教室」「造形ワークショップ」「バルーンアート」「英語でマジック」「歌とリズムの会」「絵画・貼り絵教室」 「版画教室」「似顔絵を描いてもらおう」「こどもジャズ」「パントマイム・ジャグリング」 「打楽器でリズム遊び」などですが、これだけでも盛りだくさんでしょう。ホームページで、全活動とアーティスト紹介も報告していますので、ご覧になってください。
また、現在の主な活動場所は、神奈川県立こども医療センター各病棟と施設、日赤区療センター小児病棟と附属乳児院、京都大学医学部附属病院小児病棟、宮城県立こども病院小児病棟、石巻亦十字病院小児病棟、大阪市立総合医療センター各小児病棟、慶應義塾大学病院各小児病棟などです。移動できる子は病棟のプレイルームに集まり、集団で活動をします。病室の相部屋はカーテンで仕切られ、お隣と接することはなかなかないのですが、プレイルームで一緒に楽しむうちにコミュニケーションが始まり、「なんだ、同じ部屋だったの?」と、横のつながりも生まれてきます。
一方、病室から出られない子どもは、べッドサイドで個別の活動を楽しみます。日赤病院のプレイルームにはピアノがありますが、 個々の病室には運べないので、音楽活動のときは寄付した電子ピアノを運んでベッドサイドを回っています。自分だけの出前のコンサートとなり、”入院してこんなにいいことがあるなんて!”と、子どもも保護者も目を丸くしています。入院中にビアノを習い始め、退院後も自宅でピアノを購入してレッスンを始めた子もいます。愛用のフルートを枕元に置いていた白血病の中学生は、パイオリニストとピアニストが訪問すると、何と3人でセッションを始めました。中学生の喜びようといったらありませんでしたよ。
ほんのわずかな芸術活動が、子どもたちに笑顔をもたらし、過酷な入院生活を支え、退院後の励みになるなら、と思います。また、残念なことですが、最期が近いときに保護者から呼ばれて「子どもが大好きだった曲を弾いて」と頼まれることもあります。大事な場面に立ち会い、ご家族と一緒に見送るとき、たとえ一期一会であっても、アートを共有したその時間が子どもの中で、キラッと光るものであってくれたらと願う気持ちです。
闘病生活を送る子どもの存在を知ってほしい
ーアーティストの反応はいかがですか?
松本 アーティストの多くが口にするのは、「子どもこそアーティスト」「子どもたちに教えられた」という言葉です。当団体のアーティストは有償ボランティアなのですが、「お給料は子どもの笑顔で充分」という人も大勢います。
アーティストの多くは病気の子どもたちのケアに携わった経験を持ち、病児の心理をよく理解していますから、個々の病態に合わせて適切に対処することが可能です。感染に対しても高い意識を持ち、入棟が困難なハイリスク病棟の子どもたちをも訪問しています。
ーアーティストたちのエピソードは?
松本 ある絵本作家は、絵本や児童書の挿絵の仕事を長いことしていたのですが、病気で入院生活をしている子どもに、考えが及んだことがなかったと言います。アーティスト登録をして病院を訪問し、初めて知った世界に真向かい、自分には何ができるのかを自問したそうです。絵を描くということは、きれいなものを見せてもらうとか、聞かせてもらうのとは違う能動的なことなので、もし、身体が思うようにならないなら、その分、想像の力を使えばいいと伝えています。想像の中でうんと冒険して「こんなところに行って」「こんなことをして」「こんな私になりたい」と思うままに自己表現してもらいたい。その手助けができればいいと語っていました。
「笑う門には福来たる」ではないですが、実際、笑いは一番の薬といえるでしょう。 健康な状態ですら、何か鬱々としているときに、ちょっとした冗談に笑うだけで気分が変わるものです。入院中の子どもたちは楽しいと感じる経験をたくさん持つことで、闘病に前向きになれるはず。治癒力も高まるのではないかと、私は信じているんですよ。
ー目下の課題や今後の抱負は?
松本 スマイリングホスピタルジャパンの活動方針は「個別訪問(一人ひとりを大切に)」「参加型活動(受身ではなく子とも自身が主体に)」「定期訪問(見通しを持って活動を楽しみにできるように)」「本物のアート(質の高いクリエイティブな活動を)」の4つですが、 この方針がぶれることなく、今後も続くことが必要だと考えています。また、活動を全国に広げることが必要です。小児医療の現場に子どもの笑顔と笑い声が当たり前にある社会を目指しています。
スタート時のスタッフは現在も活動中ですが、ほとんど私一人で始めたようなものなので、責任を持って活動を継続するには、誰が責任者となっても同じように機能し、子どもたちのための活動ができるよう、統括する人材と支えるスタッフを育てることが目下の課題です。病院というのは白くて大きくて、普通の人にとっては閉ざされている存在かもしれませんが、その中には可愛い子どもたちがいるのです。彼らはたまたま病気になり、私たちはただ、たまたま健康である。
たまたまであることを思えば、健康な人は何かしなくてはと自然に体が勤くはず。難病の子どもたちはもちろん、困難を抱える人たちのことをもっと知り、考え行動してほしいです。大きな災害のときにボランティアはもちろん必要ですが、何も起きていなくても身近にボランティアを必要とする人がいることを、思い出してほしいですね。
ー最後に恩師についてお聞かせください。
松本 まだ私が盛んに木登りしていた小学6年生の頃、ある出来事で担任の先生を嫌ってしまい、以降うまが合わなかったのですが、 図画の時聞に描いていたスケッチを、先生が褒めてくれたのです。「なぜ?」という思いとともに、”描くことに才能があるのかも”という自信が、初めて湧きました。その後、芸術、とりわけ美術に関心が向いて、アーティストとの出会いが増えました。12歳のときのこの出来事から、人を一面で、また思い込みで判断したらいけないということを学びましたし、芸術と関わるきっかけともなり、先生との出会いが「今」につながるものであったと改めて思います。
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教育ジャーナル 2015年5月号(学研教育みらい)より許可を得て転載